作曲家・中村節也のオフィシャルホームページ

◆近況

  2009年は病院通いでした。それでも「イーハトーヴ歌曲集」第二集の編曲のことがいつも念頭にありましたが、十二月初旬には書き上げて入院し ました。これで第一集15曲、第二集14曲の賢治歌曲が完成したことになります。前作「ギターでうたう賢治さんの歌20曲集」のときも、制作半ばで母の死 を迎えたことも忘られぬ想い出です。
 今年の3月22日には箏曲の下野戸亜弓さんの「邦楽・夢コンサート」前橋公演〈歌と語りによる宮澤賢治の世界〉では賢治作品の4編が発表されますが、今 回は私の編曲によるもので、久しぶりの邦楽器ジャンルの仕事です。
 メインは新作初演の「鹿踊りのはじまり」で、朗読、歌、箏、十七弦、尺八、打楽器による合奏。今回は切り絵をコンピュータ処理した音と映像によるコラボ レーションです。
 
 賢治の「鹿踊りのはじまり」は岩手の民俗芸能「鹿踊り」を材にとった作品ですが、だいぶ昔に私も発表したこともあります。鹿たちも嘉十とおなじような方 言を使っているところが愉快で、またユニークです。
 また今年に入ってからは、「鹿踊りのはじまり」に寄せて弦楽合奏のための四楽章ものを自主的に書き始めました。これも私なりに「鹿踊り」についての大き な思い入れがあるような気がしてなりません。
 
 ふと気がつくと、現在の私はヨーロッパ風の作曲技法からだいぶ遠ざかって、日本風なものに変わっています。昨年九月に深堀陽子(Sop.)伴場三恵子 (Pno)両氏によって初演発表した「恋歌」も声明を意識して作った歌曲でした。
 それも日本風というよりむしろ、山間僻地にいまも残る民俗風なものに惹かれています。たとえば岩手の山伏神楽や剣舞(けんばい)、田楽、延年などなど、 いずれもカビ臭いものに憧れる歳になりました。

◆賢治さんをめぐる人々 

 賢治さんは私なりにちょっとした関わりがあります。私にピアノの手ほどきをしてくださった榊原美祢子先生は、大正年間に盛岡の梅村クヮルテットの 招聘で、幾度かコンサートに訪れた榊原トリオの榊原直氏の夫人で、当時賢治さんも注目していた音楽家だったと思います。また賢治さんの親友藤原嘉藤治氏が 上京して作曲を習いたいと私淑していたひ とは、弘田龍太郎、草川信の両氏だったそうですが、弘田先生は私の恩師でもあり、先生の没後に師事した貴島清彦氏の先生が草川氏でした。
貴島先生は戦前からの賢治さんの愛読者であり、その詩にいくつか作曲しておりますし、「十力の金剛石」に材を取った管弦楽作品もあり、宮沢清六さんとは懇 意にしておられました。
また賢治さんにチェロを教えた大津三郎氏ですが、NHKがまだ内幸町にあった頃、音楽資料室で一度だけ会ったことがあります。当時資料室にいた小川昂氏が 「いまの方が大津さんですよ」と教えてくれました。残念なことにうしろ姿だけ見たことを記憶しています。 
 もうひとつ、私の「星の恩師」野尻抱影先生が昔、甲府中学の英語教師として教えていた生徒のひとりに、賢治さんの親友保阪嘉内氏がいたのです。野尻先生 が宿直の晩は中学校理科室の天体望遠鏡で生徒たちに星を覗かせたり、また星座にまつわるギリシャ神話を話したりしました。私も有楽町に東日天文館のプラネ タリウムがあった頃は先生の名解説に憧れたものです。
 明治43年ハレー彗星接近のとき、日本中の各地で少しずつハレーの姿が捉えはじめた頃、いち早く「甲府の一教師ハレーを発見」の新聞記事がでたそうです が、この教師が野尻先生でした。当時中学の寮生だった保阪氏は鳳凰三山の天空をよこぎる大彗星の壮観を、のちに賢治さんに感動をもって伝えたことと思いま す。それが「銀河鉄道の夜」
のヒントになったのではないでしょうか。

◆想いだすことなど

 私がはじめて宮澤賢治さんの歌に接したのは東京の空襲が過激になった頃でした。 家族が疎開したあと、食べるものさえなかった独り暮らしの私を慰めてくれ たものは、 古書店で見つけた松田甚次郎編の「宮澤賢治名作選」でした。苦しい日々の明け暮れでしたが、私にはヴァイオリンと「名作選」だけが生きる支えで もありました。分厚い一冊のなかには童話や詩や歌曲がぎっしりと詰まっていて、それは眩しくふしぎな宝石函のようでもありました。本 のなかにいるときだけは空襲のことなどまったく忘れて、当時では許されなかった独りだけの自由な世界に浸ることができたのです。
 当時小西市朗先生にヴァイオリンを師事していましたが、小西先生も疎開され、ヴァイオリンは一時期中断、その頃から池譲さんの「和声学研究」を参考に独 学で作曲をはじめ、良寛の和歌などに曲をつけたりしていました。友人から文学書や洋楽レコードを沢山お借りして猛烈に読書したのものもこの時期でした。三 月十日の東京大空襲で下町は焼け野原となり、敗戦の兆しが見えはじめました。五月になるといままで住んでいた荏原の家も焼け、緑が丘に部屋を借りました。 八月になって広島、長崎は新型爆弾で壊滅したという新聞報道がありましたが、陸軍省に勤務していた軍人からひそかにあれは原子爆弾だという話を聞き、つぎ は東京だということです。現実の地獄絵を見たあとはなにも怖れるものはありませんでした。私はすでに死を決意していました。敗戦が決まった翌日からは虚脱 感と開放感が入り混じった雰囲気が街ぜんたいに溢れていました。
 これからは自由に音楽がやれるという喜びがありましたが、戦後の生活はたいへんなものでした。一時期、一関市近郊にいましたが、東京に帰ると会社に勤 務、余暇は音楽の勉強をしました。芸大や東大の学生などで混成した管弦楽団に入って、スコアで覚えたところを実際の演奏で確かめながらオーケストレーショ ン学びました。YMCA芸術園では本格的に弘田龍太郎先生に和声を習いはじめました。その頃私は22、3歳になっていたので、たしかに晩学です。生徒のひ とりに冨田勲氏がいたのを記憶しています。その後弘田先生が脳軟化症で倒れ、その後は本郷弥生町のお宅に通うようになり、私が最後の弟子となりました。先 生の没後は貴島清彦氏に師事することになり、はじめて荻窪のお宅に伺ったとき、書棚に賢治全集があるのをみて嬉しかったことを覚えています。先生は賢治さ んの弟の清六さんと親交がありました。貴島先生について2年後に歌曲がコンセール・エフに入選し、続いて音楽コンクールに入賞しました。貴島先生は詩や美 術工芸などホンモノの芸術をみる眼を教えてくださいました。そして「青樹舎」という作曲グループをつくり、門下生の作品発表がつづくことになります。現在 ではガラス工芸家の長男の雄太朗さんが、「青樹舎ガラス工房」の名称を継いでいます。
 妙な話ですが私は戦時中からコモド島に生息する大トカゲに魅惑されていました。戦後津川主一先生がコモドドラゴンの資料を探しておられる話を聞いて連絡 したのがきっかけで、音楽の弟子にしていただきました。先生は宗教音楽、合唱の専門以外に天文や古生物学を研究され、化石、土器などの蒐集家でもありまし た。
 また私の少年期はもっぱら自作の天体望遠鏡で星団や星雲などの観測をするのが趣味でした。有楽町にあった東日天文館で野尻抱影先生の名解説を聞いてから は野尻先生に私淑。あるときは穂高の涸沢カールや夜叉神峠、甲斐駒などからせっせと星のスケッチを描いて先生に送りますと、先生はたいへん喜ばれ、弟子の ひとりにしていただきました。東急プラネタリウムで串田孫一さんと一緒に「星と山と音楽の夕べ」などをテーマにして、私は賢治の「星めぐりの歌」などを編 曲して発表しました。これも野尻先生の企画でした。雀百まで踊りをなんとやら、私の天文趣味は現在もなお続いています。鎌倉の大佛次郎氏の茶室で天文随筆 の石田五郎さんにお会いして以来、親交があり、そのご氏が「野尻抱影伝」執筆するというので野尻先生の資料など提供しましたが、残念なことに急逝されまし た。
   放送の仕事はNHKの「たのしいうた」や幼児番組から始まり、これは後藤田純生さんの担当でした。また宣弘社でCM音楽をやっていた頃、CMを担当して くれたのが深田公之さん、のちの阿久悠でした。

(中村節也)

プロフィール NEW!

 1928年東京生まれ、戦時下『宮澤賢治名作選』に感銘し現在に及ぶ。
小西市朗氏にヴァイオリンを師事、YMCA芸術園、基督教音楽学校に学び、その後、
弘田龍太郎、貴島清彦両氏に作曲を師事する。NHK教育番組の『マイクの旅』の音楽担当を手始めに作曲に専念する。コンセールF入選、日本音楽コンクール 室内楽作曲部門第一位入賞、九州ギター現代音楽祭優秀作(2回入賞)文化庁舞台創作芸術奨励賞、1990年以降は作曲塾を開講しています。宮沢賢治学会会 員、日本作曲家協議会会員。

 少年期より星の美に憧れ、野尻抱影先生を敬愛し、のちに星の弟子として許される。雀百まで踊りを忘れずとやら、天文趣味はいまもかわらず、レンズを覗く 夜もあります。ことに宮澤賢治に関する「音楽」と「星」の研究はライフワークです。
 
 いままで多くの諸先輩から恩恵をうけてきました。故人となられました津川主一、弘田ゆり子、ダン道子、井田一郎、塚谷晃弘、小原安正、高田三郎、山崎裕 康 ( 川辺栄次郎 ) 柳沢剛、内藤法美、越路吹雪、郷原吉太郎、石田五郎の諸氏。また現在でも石井好子、芦野弘、堀内環、岩間南平、渡部宏、青山昌弘の諸氏ほか大勢の方々から ご厚情や励ましの言葉をいただいております。

イーハトーヴ歌曲集について

今回従来の「イーハトーヴ歌曲集」−宮澤賢治の歌−に新しく「風の又三郎」1曲を追加して出版しました。あの「どっどど  どどう」という歌です。  この歌は昭和15年に日活多摩川製作の文芸作品、映画「風の又三郎」の主題歌で、この映画によって宮澤賢治の名が一躍全国に知れ渡った記念すべき作品 です。
 レコードも同じ頃発売され、当時童謡歌手だった菅原都々子によってヒットしました。歌詞はむろん宮澤賢治、作曲はジャズビアニストで、戦後は石原裕次 郎の映画音楽などで活躍した杉原泰蔵氏の作品です。
 今回はとくに著作権承継者のお許しをいただいて編曲、出版の運びとなりました。だれでも知ってはいても、歌詞もメロディもはっきりしない幻の歌、おそ らく楽譜はいままでなかったでしょう。したがってこの歌の出版はとても意義のあることとおもいます。
中村節也