想いだすことなど NEW!
私がはじめて宮澤賢治さんの歌に接したのは東京の空襲が過激になった頃でした。 家族が疎開したあと、食べるものさえなかった独り暮らしの私を慰めてくれ
たものは、 古書店で見つけた松田甚次郎編の「宮澤賢治名作選」でした。苦しい日々の明け暮れでしたが、私にはヴァイオリンと「名作選」だけが生きる支えで
もありました。分厚い一冊のなかには童話や詩や歌曲がぎっしりと詰まっていて、それは眩しくふしぎな宝石函のようでもありました。本 のなかにいるときだけは空襲のことなどまったく忘れて、当時では許されなかった独りだけの自由な世界に浸ることができたのです。
当時小西市朗先生にヴァイオリンを師事していましたが、小西先生も疎開され、ヴァイオリンは一時期中断、その頃から池譲さんの「和声学研究」を参考に独学で作曲をはじめ、良寛の和歌などに曲をつけたりしていました。友人から文学書や洋楽レコードを沢山お借りして猛烈に読書したのものもこの時期でした。三月十日の東京大空襲で下町は焼け野原となり、敗戦の兆しが見えはじめました。五月になるといままで住んでいた荏原の家も焼け、緑が丘に部屋を借りました。八月になって広島、長崎は新型爆弾で壊滅したという新聞報道がありましたが、陸軍省に勤務していた軍人からひそかにあれは原子爆弾だという話を聞き、つぎは東京だということです。現実の地獄絵を見たあとはなにも怖れるものはありませんでした。私はすでに死を決意していました。敗戦が決まった翌日からは虚脱感と開放感が入り混じった雰囲気が街ぜんたいに溢れていました。
これからは自由に音楽がやれるという喜びがありましたが、戦後の生活はたいへんなものでした。一時期、一関市近郊にいましたが、東京に帰ると会社に勤務、余暇は音楽の勉強をしました。芸大や東大の学生などで混成した管弦楽団に入って、スコアで覚えたところを実際の演奏で確かめながらオーケストレーション学びました。YMCA芸術園では本格的に弘田龍太郎先生に和声を習いはじめました。その頃私は22、3歳になっていたので、たしかに晩学です。生徒のひとりに冨田勲氏がいたのを記憶しています。その後弘田先生が脳軟化症で倒れ、その後は本郷弥生町のお宅に通うようになり、私が最後の弟子となりました。先生の没後は貴島清彦氏に師事することになり、はじめて荻窪のお宅に伺ったとき、書棚に賢治全集があるのをみて嬉しかったことを覚えています。先生は賢治さんの弟の清六さんと親交がありました。貴島先生について2年後に歌曲がコンセール・エフに入選し、続いて音楽コンクールに入賞しました。貴島先生は詩や美術工芸などホンモノの芸術をみる眼を教えてくださいました。そして「青樹舎」という作曲グループをつくり、門下生の作品発表がつづくことになります。現在ではガラス工芸家の長男の雄太朗さんが、「青樹舎ガラス工房」の名称を継いでいます。
妙な話ですが私は戦時中からコモド島に生息する大トカゲに魅惑されていました。戦後津川主一先生がコモドドラゴンの資料を探しておられる話を聞いて連絡したのがきっかけで、音楽の弟子にしていただきました。先生は宗教音楽、合唱の専門以外に天文や古生物学を研究され、化石、土器などの蒐集家でもありました。
また私の少年期はもっぱら自作の天体望遠鏡で星団や星雲などの観測をするのが趣味でした。有楽町にあった東日天文館で野尻抱影先生の名解説を聞いてからは野尻先生に私淑。あるときは穂高の涸沢カールや夜叉神峠、甲斐駒などからせっせと星のスケッチを描いて先生に送りますと、先生はたいへん喜ばれ、弟子のひとりにしていただきました。東急プラネタリウムで串田孫一さんと一緒に「星と山と音楽の夕べ」などをテーマにして、私は賢治の「星めぐりの歌」などを編曲して発表しました。これも野尻先生の企画でした。雀百まで踊りをなんとやら、私の天文趣味は現在もなお続いています。鎌倉の大佛次郎氏の茶室で天文随筆の石田五郎さんにお会いして以来、親交があり、そのご氏が「野尻抱影伝」執筆するというので野尻先生の資料など提供しましたが、残念なことに急逝されました。
放送の仕事はNHKの「たのしいうた」や幼児番組から始まり、これは後藤田純生さんの担当でした。また宣弘社でCM音楽をやっていた頃、CMを担当してくれたのが深田公之さん、のちの阿久悠でした。
私はいままで多くの方から恩恵をうけてきました。音楽関係では弘田ゆり子、ダン道子、塚谷晃弘、小原安正、高田三郎、津川主一、小川昂、山崎裕康、井田一郎、柳沢剛、田井健二、丹下吉太郎、伊福部昭、服部公一、松村禎三、山田泉、石桁真礼生の諸先生の厚情は忘れることはできません。シャンソン界では今は亡き内藤法美、越路吹雪夫妻をはじめ、現在では石井好子、岩間南平、堀内環、芦野宏、朝倉まみ、の諸先生そのほか大勢の方々数えきれません。
賢治さんのこと NEW!
花巻市では毎年「風のセミナー」というイベントがあり、市内の小中学校に招かれて「賢治さんと音楽」をテーマで話をします。二年ほど前のことでしたが講
演のあと、花巻中学校の生徒たちが「精神歌」を歌ってくれました。賢治さんの作詩した曲です。私はすっかり感動しました。もともと「精神歌」は賢治さん
が農学校の教師時代に生徒たちのために作った歌でしたが、今では花巻市の集会などでは盛んに歌われる歌になりました。私はこの生徒たちのためにも、賢治さんが遺した歌曲の編曲を思い立ちました。それが「宮澤賢治全歌曲集」ですが、この本は編集ミスが多く、その後14曲に厳選したマザーアースの「イーハトーヴ歌曲
集」(宮澤賢治の歌)、さらに「風の又三郎」を加えた改訂版ができました。今年になってマザーアースのご配慮で「ギターでうたう賢治さんの歌20曲集」を出版しました、この曲集はギターの弾きがたりができるように、ほとんどの歌が見開き2ページでおわるようにできています。また巻末に「賢治さんの音楽」についての私の小論もあり、賢治歌曲の成立を時代的背景から解説してみました。これは「宮澤賢治?メンタル・サウンド・スケッチ?星めぐりの歌」(ソニー・レコード細野晴臣氏ほか)のCD解説として私が書いたものを収録しました。
「エローラのゴーシュ」のこと NEW!
チェリスト渡部 宏さんは毎年越谷市の田園ホール・エローラで「エローラのゴーシュ」リサイタルを精力的に続けています。ご存知のこととおもいますが、渡部さんは東京。ヴィヴァルディ合奏団の代表でもあり、卓絶したチェロの名手です。その音色はベルベットのように柔らかく語るような演奏で聴くひとを魅了させます。またトークを混えての演奏で賢治の幻想世界へ誘ってくれます。今年は氏の監修による私のチェロとピアノのための「イーハトーヴ組曲」全曲を発表することになっています。
作曲塾 NEW!
作曲塾を開講して十数年になります。初期の生徒さんは現在すばらしい作曲や編曲をするようになっています。なんでも基礎をしっかりやっているひとは発展性があります。ホンモノの作曲を志すひとはどうぞおいでください。
(中村節也)
プロフィール NEW!
1928年東京生れ。YMCA芸術園、基督教音楽学校に学び、津川主一、弘田龍太郎、貴島清彦各氏に師事。NHK教育番組「マイクの旅」から作曲活動をはじめる。
コンセール・エフ入選、日本音楽コンクール第一位、九州ギター現代音楽祭優秀作(2回入賞)
文化庁舞台創作芸術奨励賞など。1990年以降は作曲塾を開講。
宮沢賢治学会々員ほか。
イーハトーヴ歌曲集について
今回従来の「イーハトーヴ歌曲集」−宮澤賢治の歌−に新しく「風の又三郎」1曲を追加して出版しました。あの「どっどど
どどう」という歌です。
この歌は昭和15年に日活多摩川製作の文芸作品、映画「風の又三郎」の主題歌で、この映画によって宮澤賢治の名が一躍全国に知れ渡った記念すべき作品
です。
レコードも同じ頃発売され、当時童謡歌手だった菅原都々子によってヒットしました。歌詞はむろん宮澤賢治、作曲はジャズビアニストで、戦後は石原裕次
郎の映画音楽などで活躍した杉原泰蔵氏の作品です。
今回はとくに著作権承継者のお許しをいただいて編曲、出版の運びとなりました。だれでも知ってはいても、歌詞もメロディもはっきりしない幻の歌、おそ
らく楽譜はいままでなかったでしょう。したがってこの歌の出版はとても意義のあることとおもいます。
中村節也

